こんにちは。さきいかです☺
八郎潟干拓は昭和32年に国営事業としてスタートし、昭和34年に堤防が造られましたが、それ以前に県営事業として東岸堤防が造られていました。
八郎潟干拓が行われた理由の一つとして、八郎潟周辺の水害対策があります。
潟の風向は、主に冬から春は北西、夏から秋は南西・南南西(台風の影響)で、潟の周辺は水害の被害が多くありました。
寒風山おろしの影響で5~10メートルの大きさの氷塊が湖岸周辺に流れ込み、家屋や漁具などが壊されたそうです☹
そこで、八郎潟町三倉鼻~昭和町(現・潟上市)野村地先までの湖岸全長約15㎞の堤防工事が検討されました。
博物館には、昭和22年7月に起きた大水害の八郎潟周辺の写真が残されています。
昭和町(現・潟上市)での写真↓
場踏川付近の氾濫の様子↓
この他にも飯田川町(現・潟上市)の冠水の様子なども残されていました。
この水害では秋田県全体で死者・行方不明者32名、住宅全壊・流出468世帯、床上・床下浸水45,572世帯、田畑の流出・冠水67,000haなどの被害があったそうです。
このような状況が何度もおこったため、昭和26年県営事業として着工されました。
しかし国営干拓事業がスタートし組み込まれる形となり、三倉鼻~馬場目川の間の約6㎞の工事で終了となりました。
こちらは昭和28年測図の八郎潟と東岸側の地図です↓
矢印から矢印までの間の実線部分が工事した場所になります。
この東岸堤防は池田知事の時に行われた工事でしたが、その後知事になった小畑氏や天王町長などを務めた二田氏の「八郎潟周辺の水害をなんとかしたい」という気持ちが八郎潟干拓への大きな原動力となったように思います。