こんにちはー たかみーです(・ω・)ノ
6月11日(火)に行われた男鹿市菅江真澄研究会主催の「菅江真澄の道探訪会」に行ってきました!
菅江真澄について知らない方のためにざっくりご説明いたしますと、菅江真澄は江戸時代後期(今から200年くらい前です)の紀行家です。
生まれは三河国(みかわのくに・現在の愛知県東部)ですが、30歳ころから旅をはじめ、1784年に初めて秋田を訪れ、以後青森、岩手、宮城、北海道を経て、1801年再び秋田へ戻ります。その後は生涯を秋田で暮らし、1829年に仙北で亡くなりました。
男鹿には少なくとも4度訪れており、5冊の紀行文「男鹿の秋風」、「男鹿の春風」、「男鹿の鈴風」、「男鹿の島風」、「男鹿の寒風」は、まとめて「男鹿五風」(おがごふう)と言われています。
真澄の紀行文は、文章だけでなくたくさんの絵があるのが特徴で、当時の自然景観や人々の暮らしぶりなどを手に取るように知ることができます。
現在も各地に確認できる足跡が多く残っているので、200年前に真澄が見た風景をたどることができるんです!
男鹿半島はほぼ全域が真澄の道と言っていいほどですが、今回の探訪会は旧若美町エリアに絞って行われました。
旅の途中、真澄は宮沢地区のハタケヤマさんという方のお家に滞在し実際にナマハゲ行事を体験しています。看板には真澄が体験した宮沢地区のナマハゲ行事について書かれています。写真では隠れてしまって見えませんが、真澄が描いたナマハゲの絵もあります。講師を務めた男鹿市菅江真澄研究会の会長天野荘平氏は、これは実際にナマハゲ行事を体験しなければ描けないとおっしゃっていました。
こちらは真澄が描いた絵に出てくる、申川(さるかわ)というところにある神社です。
真澄の絵では神社の左側に滝が描いてあるのですが、現在はそのようなものはありません。しかし、写真右側の奥の方に行くと滝っぽいものがあるので、真澄が図絵に残したあとで神社が移動したのではないか?とのことでした。
謎解きみたいでおもしろいですよね(´ω`)
実際に真澄が歩いた海岸には現在はたくさんの風車が並び、真澄が見た景観とは違うものになりました。
八郎湖も現在は干拓されて大潟村になりました。
まさか八郎湖が陸地になるなんて思ってもなかっただろうに(・ω・)
もし真澄が今の男鹿半島・大潟ジオパークを見たらどんな紀行文を書くんだろうと思いました。